長崎啓成会について

長崎啓成会の歴史背景

 明治38年4月、元刑務所職員「塩山宗一」氏が、長崎市片渕町の自宅の自宅を開放し収容保護を始め、それを長崎市内の学校教員が援助、その後、漸次形態を変え明治44年2月「塩山保護園」と称した。

 大正元年12月には市内真宗寺院が「塩山保護園」を支援し、同町に保護場を新築寄贈したのを機に、これを「長崎啓成会」と改称し、昭和6年には浦上刑務所隣接地の市内橋口町に施設一切を改築した。

 15年余り釈放者を収容保護してその業績は大いに見るべきものがあったが、昭和20年8月の原爆により施設一切が廃墟となり、その折り、職員・収容者も死亡した。

 敗戦後は、道義にかけた者が増え、犯罪の激増で真に堪えないものがあり、本会の復興は一日の予断も許されない状況であり、早期の再建を企図する必要に迫られた。まず、長崎進駐軍政府に了解を受け市内新大工町73番地に、進駐軍接収の所在家屋及び土地の使用許可を得て、改修し仮事務所とした。

 施設関係者は、終戦後のあらゆる悪条件を克服し、資材の入手に努力し、天本社会事業団の協賛により昭和22年8月13日市内梅香崎町9番地に敷地を借用し、同所に事務所並びに収容施設を設置し、昭和23年2月29日に落成した。

 原爆被災後、2年半余りにして本会の復興の基礎ができたのである。その後、当施設は昭和24年6月20日日には保護施設拡充強化のため、市内寺町107番地禅林寺から敷地及び寺院の一部を5年間無償にて借用し、同所に収容施設の分室及び事業場(木工場・鍛冶工場)を設立した。

 昭和25年11月24日、司法保護事業法に基づき更生保護事業経営の認可を得て、更生保護会の確立へと繋がった。

 しかし、施設の老朽化が甚だしく分室は借用期限を経過し、立ち退きをしなければならない状況に至り、長崎市外茂木町田上383番地(2,183坪)を買収し長崎市の協力を得て、昭和32年8月1日ブロック平屋建て、建坪125.8坪、収容定員60名の施設を改築移転した。

 昭和34年には市政改革により、所在地が長崎市に編入され、昭和46年3月末(旧施設)に施設が完了した。

 平成8年3月12日財団法人から更生保護法人に組織変更され、更生保護法人長崎啓成会となった。

 その後、更生保護施設としての機能が低下してきたため、平成20年3月末には自己資金により2階居室、厨房等を改修した。また、平成21年3月末には、財団法人車両競技公益記念財団(現在の、公益財団法人JKA)及び更生保護法人更生保護事業振興財団からの助成を受け、1階居室、食堂兼集会室、事務室兼相談室、外壁工事、職員宿舎の補修等を行ったものの、原因不明の漏水による被保護者居室壁面のカビ、経年による電気配線の脆弱化による損耗・分断、建具の歪曲等により居住環境が劣悪化してきたため、平成28年9月に全面改築に伴う「更生保護施設建築物現況調査票」を提出したものである。

 これを受けて、法務省保護局作成の平成31年度(令和元年度)「更生保護施設大規模整備事業(全面改築)第6次5か年計画」の初年度に計画され、公益財団法人JKA、更生保護法人更生保護事業振興財団、長崎県、長崎市からの補助金のほか、更生保護法人九州地方更生保護協会、更生保護法人長崎県更生保護協会からの助成金を得たものの、財源不足から長崎県内の更生保護関係者、長崎県内の篤志家からの寄附金、自己資金を持って令和2年6月22日新施設が竣工した。

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